GOOD SWELL JOURNAL /

家の中のちいさな流れ

ピッチャーとの出会いは、そのタイトルは忘れてしまったが、70年代のアメリカ映画で、早朝からなにかと忙しい母親が6歳ぐらいの息子に朝食を用意するシーンだった。テーブルにパンとマグカップを置き、ピッチャーからカップにミルクをそそぎながら、まだまどろみのなかにいる息子をどなりまくりくるものだから、ミルクは勢いをあまってテーブルにこぼれてしまう。彼女はキッチンのウエスで乱雑にふき取りながら、息子と自分そして世間を罵倒する言葉のかずかず。
アメリカン・ニュー・シネマによくあるひどく乱暴なシーンであったが、ミルクがピッチャーに移し変えるという手間になぜか豊かな時間を感じてしまった。そうだ。いつの日にか、私もピッチャーを手にいれよう。
「陶器のピッチャーって、なんかありがたさを強要している感じで、ちょっとイヤミだよね」「アレ、鉄?なんで?木製もあるよね、どっちもなんか時代がかっちゃって、ねー」「カワイイカフェなんかにたまにあるプラスチックなんてロンガイ。ヤッパリ、ガラス。パイレックスにつきるね」そんな会話がテレビのドイツビール特集番組を見ながら過去にあった。いままで何気なく使っていたピッチャーに、ガールフレンドがこれほどまでに私情が絡んでいたとは知らなかった。
パイレックスにつきるかはともかく、ガラスが一番、であることには私も同感。にもかかわらず、ちょっとかわいいなで、用途は無視して買ってしまったこのピッチャーをどうやって家に持ち込むかが問題である。「ガーデニングでもはじめるつもり?」とイヤミな言葉を彼女から受けるのは必至だろう。
私はなにがしかの飲み物を1日に2~3リットル飲んでいる。コーヒー、紅茶、日本茶、フルーツジュース、中国茶などなど。しかし、まず口にふくんだときに舌での味わいはもちろんだが、鼻腔のほうへ貫ける味わい。嚥下するときに咽喉のところでその味わいが再びぶり返し、しばらくの余韻をもってフェイドアウトする。咀嚼をせまる固形物では、噛むことにウエイトがおかれてしまい、これほどまで怠惰にその味を享受できない。怠惰な自分を弁護するつもりはないが、飲み物の魅力はここにある。
そんなわけで、注いでは飲みつづけた果てに気がついたのですが、飲み物を注ぐということは、注ぐものとそれを受けるものとの間に小規模ではあるが<流れ>をつくりだすことでもあった。好きな時に好きな場所でつくりだせる流れ。今では、この流れを見るだけでも十分にお茶を淹れる価値はあると思っている。
それにしても、このプラステッィク製のピッチャーである。未だガールフレンドが使用した形跡はおろか、なんのコメントも無い。この無風状態に風穴をあけたいのだが、これみよがしに彼女の前で使う気にはなれない。ひとりのときにこれを使ってみた。まずはジュース。それははじめから分かっていたが、いかにも不味そうでなかなか飲む気にはなれない。次は水で。コップに注ぎながら、その流れに指を入れ、なめてみれば、ほんのり塩味。まだまだ暑い日はつづく。 (hy)