GOOD SWELL JOURNAL /

マダム・オキーフ(?)のティーカップ

もうすこしすると、暑い祇園祭がはじまる時期に毎年10日ほど仕事で京都に行っていた。仕事は半日で終わることもあれば、全くない日もあり空いた時間はひたすらプライベートタイムとなる。滞在しているホテルで自転車を借り鱧の文字がやたら多くなった京都の街を歩きまわっていた。
うどんを食べたり、古めかしい喫茶店に出くわせばコーヒーをすすり、二条あたりの鴨川の飛び石を渡ったり。そんなことから、たまたま入ったアンティークショップはすばらしかった。三条通りと高倉通りがまじわる近くにあり、町屋をきれいに改装していた。
1階は食器や雑貨、照明器具といったもので、2階は家具とその周辺のもの。どれも往時の生活のまわりにあったものばかり。どんな事情で元の持ち主から別れたかは解からないが、この店に引き取られたのち、家具は風合いを残しつつ修復され、食器や雑貨はクリーニングがほどこされ、どれも律儀な佇まいで次なる持ち主が現れるのを待っていた。 かなりの量のものが店主のカテゴライズできっちり整理され、とても気持ちがいい。やっぱりお店はこうでなくっちゃ。たいそうな骨董屋の奥で鎮座しているものとは違い、気軽に手に取り、手のひらでそのフォルムを再確認する。やっぱりものは触らなくっちゃね。<三条へ行かなくっちゃ>と歌っていたのは高田渡。
おお、こんなところにマダム・オキーフが。そんな気持ちで3客。ふつうコーヒーカップでありティーカップであれ、コップになにかモティーフがほどこされていれば、その全体つまりぐるり一周となるはずだが、この葉の反対側は全くの余白。この大胆な決断。左利きのひとはきっと寂しい思いとするだろう。内側から葉の模様が透けて見える薄さだ。
それにしても対である受け皿がない。別ものをあてがうにしろ、質感がぴったりでなければならない。無地それとも模様は?そんな談義を主人といばらくしたが、どこかで偶然見つけるしかないと腹を決めた。この対が出てくるのは不可能にちかいので、問題なく別もので合いそうなものは気に留めておきます。と店主からありがたい言葉をいただいた。そうか、私は談義の中であれやこれやと自分の希望を喋っていたのだった。
そして、次の年も私は三条へおじゃました。お店に入るなり店主から、皿、見つかりました?こちらも気に留めてはいたのですが、なかなか。すみません。そうだったのか。ちゃんと1年前のことを覚えていてくれたのだ。肝心の受け皿にはまだ出会えてないが、それ以上のものに出会った気持ちになった。この話には後日談があります。いずれ。(hy)