GOOD SWELL JOURNAL /

まだ出会ってはいない沖山さんや松島さん

この1月に仕事場の近くにある本屋が閉店。そして3月にはとなりビルの文房具屋が閉店。本屋は閉店当日まで平常通りの営業だったが、文房具屋は閉店までの1ヶ月間在庫セールをやり、はじめは全品2割引だったが、やがて3割、5割、8割引までになった。この店は月に2度ほど利用する程度で、めったに他の客がいたためしはなかったが、セールの割引率が多くなるにつれ大勢が押しかけ、それに気を良くしたのか店主は6割引にはり紙を変えた。すばらしき現実主義。
セール最後の3日間は経年劣化がはなはだしいものや誰かが、ずっと使っていたような風合いをまとった三文判が店頭に並び、ご自由に持っていってください。のはり紙が貼られた。現実主義と打って変わった展開を店主に訊ねると、しみじみ、「でもね、そうやっても捌けないものは、お金を払って処分屋さんに頼むんだよ」
ご自由にーーーの文字に足を止めた通行人たちに私も混じり、三文判の円の中に彫られた文字を目で追っていた。「サヤマはあるのに、なかなかないもんだねー」とすると、この人は佐竹さんだろうか。あればラッキーぐらいなのか、その言葉にあまり落胆のニュアンスはない。なにしろタダなのだから。
あたりまえだが、いくらご自由にとはいえ、佐竹さんは<佐竹>の文字を探している。そんな佐竹(?)さんのとなりで私はその文字の中からいままでに出会った人たちの姓を探しはじめていた。その割合は15本に1本ぐらいで、ということはここにある姓の1割にも満たないのだった。このことのコメントを佐竹さんに求めるわけにもいかず、即座にこの数字が多いのか少ないのかは判らない。
9割強の出会ったことのない沖山さん、松島さん。これまであまり深く考えていなかったが、印鑑というものはキス・マークのようなものだと思っていた。その色はともかく、印をつけてはじめて意味をもつわけだから。
そんな印をつけない限り宙ぶらりんなものなのに、あらためて考えてみると、その文字の居場所の特殊性に加え、三文判の特徴である持ち主色の過剰性のなさが、かえってストレートに<沖>と<山>の文字に私を向かわせ、その情報のみで沖山さんというキャラクターが、私の中で作られていった。これは他のものもじっくりながめてみよう。
そんな事情を店主に説明するのも憚られたが、タダ以上の額を提示すると快諾してくれ、これでごっそりいただける算段はついた。しかし、立ち止まる人たちの自分の名前探しの愉しみも奪いたくはなく、ほどほどのごっそり、にした。
事務所に持ち帰りながめ直すと、文字は円の中から飛び出し、出会ったことのない無数のキャラクターたちがひしめきはじめ、それらは私にとり、だんだん近しい存在になってきた。いや、これはここで彼らに出会ったといってもいいのかもしれない。
もし10年後、20年後に生身の沖山さんや松島さんに出会ったら、これらの三文判を手に入れた日のことを思い出し、ずいぶん懐かしい人に再会した気持ちになるのだろうか。そうであれば、閉店セールの経緯を彼らに教え三文判をプレゼントしよう。たぶん、貰ってくれるのでは。(hy)