GOOD SWELL JOURNAL /

また、たぶんずっと、たぶん

なにかが欲しくて街を歩いているわけではないが、街には店が溢れているし、ちょっと気になる店に出くわすと所持金のあるなしにかかわらず私は必ず入ってしまう。気になるということは、とりもなおさず自分好みのものが、そこにはあるかもしれないということである。もちろんある時もあるし、そうでない時もある。
なくても具体的な何かが欲しくてというわけではないから、さほど落胆することはない。むしろ、その品揃えで勝手にオーナーの嗜好を想像する意地悪なたのしみをおぼえてしまった。
「しかし、買ってくるものは、生活必需品じゃなく、嗜好品ばっかりだよネ」とはガールフレンドの言葉。この言葉にウラはないのだが(たぶん)、<ばっかり>には、彼女の面持ちは朗らかなのに否定のニュアンスがすこし含まれているようにも思える。
どう調整しても1日に30分以上遅れてしまう置時計、熱いものを入れたらすぐには手で持てない塩化ビニールのカップ、蓋の中央に小人が立っていて洗う時に神経を使う菓子鉢などなど。私がいままでに買ってきたこれらのものを思い浮かべると、安価にもかかわらず確かに嗜好品とよばれるものだろう。そして、嗜好品の定義はといえば、生きるうえで無くてもいい単なる贅沢品。と身もふたもない。
しかし、贅沢という概念は地球上で霊長類にだけに与えられたものだ。そんなかたぐるしいことより、いま、私のそばにある高さ8センチにも満たない、メイド姿の熊の貯金箱。これを買ってきた時、彼女は「これで、わたしたちも、すぐに小金持ち」と嬉しそうにいった。それから、筒の中央のくびれに女のひとのウエストを連想し、ただそれだけで買ってしまった鉛筆立て。そうとは知らず「これで、貴方も作家気分。ヨッ、大御所。先生、原稿はいつ頂けるのでしょうか」と正座までしてしまう彼女。そんなたわいもない時間は私の毎日のなかで、次第に大きなものとなり、なくてはならないものとなってしまった。
ものとの出会いで、あ、これは私が引き取らなければならない。これを買うに相応しい人が私以外にいるのだろうか。そんな繰り返しの日々で買い込んでいるだけで、彼女を喜ばせるためにではないが、彼女の言動とその後にやってくるたわいもない時間は<うん、買ってしまおう>という私の本能に火を点けてしまった。
しかし、買えば小金がなくなるわけで、「単なる浪費じゃん」の言葉を彼女からもらうこともある。単なる浪費と単ならない浪費、いずれにしても浪費であることに変わりはない。想像するに、<単なる>という奥には、その消費の結果が有意義なものに還元されるかどうかの区分けが潜んでいるようだ。しかし、それが有意義であるかないかは、そもそも即決できるものだろうか。
現に、先日買ったゼンマイ仕掛けのメリーゴーランドのオモチャ。はじめはジリジリと姦しく回り、ゼンマイが伸びきる手前で音も弱まり、ついに回転はピタリと停止し、上部からぶらさがっている木馬ならぬ4人のオジサンたちが停止の反動でコンマゼロ点何秒後にかすかなひと揺れ。あらためて人にいうほどのことでもない、そのかすかなひと揺れを眺めながら、他では得られない時間を私は過ごしている。
変人のそしりを受けながら、その一生を昆虫の観察に捧げたファーブルは「一度、本能というものにスイッチが入ったら、その個体は死ぬまでその行為を止めることはない」といっている。これは産卵中に外敵から襲われ、それでもその行為を止めようとしない昆虫を見ていったのだが、彼という存在そのものに言及したものである。
だから、本能という言葉は軽々しく使ってはいけないが、それを重々承知のうえでいいます。「単なる浪費じゃん」という言葉を浴びながらも、私の本能にスイッチが入ってしまった以上、もう誰に憚ることはない。いや、誰にも憚ってはいなかった。明日も家のドアを開け元気な声でこういおう。「また買ってしまいました」と。(hy)